94 学校の相談システムが機能しない理由

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皆さんこんばんは角松利己です!

今回は、「学校の相談システムが機能しない理由」について書いていきます。

「相談して」って言われて、相談する?

1学期末テストの中日の午後、教職員対象の「自殺予防プログラム」についてのレクチャーがありました。教育センターから指導主事を招いて、「SOSの出し方」を生徒に教える前段階としての学習講座です。

プログラム自体は1時間程度で、「TALKの原則」を中心とした講義。最後の方で同僚とロールプレイをする、というもの。この手の講習会はかなり以前からテスト期間中に校内で実施することが定例となっていて、存在自体は定着しています。

ところで、その講座を受けている時、気になる疑問が浮かびました。

「日本の学校では、なぜ生徒による相談行為が根づかないんだろう??」

この疑問が浮かんだのは、配布されたパワーポイントのスライド資料を眺めていたときでした。実際の授業で生徒に見せるためのスライドでしたが、後半のほとんどに、「大丈夫だよ」「心配ないよ」「相談するのは恥ずかしいことじゃないから」的な言葉が羅列されていて、スライド全体の多くを占めていたからです。

相談行為のハードルを下げるための呼びかけがほとんどで、「・・・何度も繰り返せば、生徒の心が動くと思っているのかな?」と、あまりにも単純なパターンの働きかけ方に、疑問を持ったわけです。そして同時に、

そもそも、生徒が「相談しよう」と思えるような土壌が、学校にはあるんだろうか?

こんな疑問が浮かびました。それは、今まで学校で折に触れて実施されていた、あるアンケート結果が頭をよぎったからでした。

教師は生徒の相談相手にはならない。

日本の学校では、問題行為が起こるたびに、あるいはそのような行為を未然に防ぐために、ある種のアンケートを実施しています。たとえば「いじめに関するアンケート」のようなものです。「いじめ」については定期的なスクリーニングを必要とするため、その行為の有無に関わらず、定期的に実施されます。

もちろん、そういったアンケートで重大事案に至る直前にいじめ行為等の問題行動を把握・対処することはできるんですが、生徒から寄せられる声はごくわずかです。

またこういったアンケートとは別に、「生活実態調査」的な名目で、「あなたは悩みを誰に相談しますか?」という質問が必ずあります。その質問では、たとえば次のように「相談相手の選択肢」が並んでいます。

親、友達、兄弟姉妹、先輩後輩、教師、その他・・・

ところで、いくつかの選択肢がある中で、悩みの相談相手に「教師」が選択されることはほとんどありません。近年の傾向では、「親」が最も多いようです。そして「相談しない」という回答もあります。ただ、いずれにせよ、「教師」が相談相手になることはほぼないのです。

なぜ「教師」や「友人」は相談相手にならないのか?

上記の結果には、こんな理由が考えられます。

まず、近年、子どもたちにとって最も身近で影響力を行使し得る存在が「親」であるという点です。かなり昔に流行った、「友達親子」という関係性もあるとは思いますが、それ以上に、「親の権限」が強まっているような感があります。少子化の影響もあり、一人ひとりのこどもにかけるエネルギーやコストは、以前と比較して大きくなりました。

子どもに対する学校や親など、社会全体としての看取り傾向が強くなり、これに人権意識が加わった結果、子どもに対する親の庇護意識が潜在的に強化されていると感じます。善きにつけ悪しきにつけ、親は子どもに関わらざるを得ないし、子どもも親に頼らざるを得ない。

社会構造がいまだかつてないほど大きく変化する現在は、将来の不透明さもあって、中高生世代は無難な路線を歩もうとしています。こういった停滞感が漂う雰囲気の中では、必然的に親の影響力が強くなります。

一方で、生徒にとって教師が相談相手にならない理由は明白です。それは、教師が「評価者」であるからです。「常に自分を評価する相手」に対して心の中を吐露する行為は、会社の上司に相談するようなもので、きわめてリスクが高い行為と言えます。これは一種の「賭け」のようなものです。当たれば実入りは大きいが、外せばすべてを失う。だったら、悩みごとは心のなかにためるしかありません。

仮に、一生徒が特定の教師と信頼関係を結び、心の交流を伴うようなやり取りを実現できたとしても、何か問題行動が露見した瞬間、そのような関係性は、「学校対生徒」の構図の中に組み込まれてしまいます。

生徒が教師を相談相手と考えない理由は、他にもあります。

生徒は1日の半分を学校で過ごします。しかも学校にいる間、常に何らかの形で周囲との比較を余儀なくされます。一方で教師は、特に学年が上がれば上がるほど生徒を褒めることをしなくなります。結果として、生徒は「注意されるか、放って置かれるか」のどちらかの状態にいることになるんですね。楽しくないんです。「生徒が教師に相談事をする」世界は理想的ですが、現実には存在しません。

生徒にとっての相談相手としては、実は「友人」も多くはありません。「友人」は情報交換の対象にはなり得ますが、深い悩みについては対象外です。それは、悩みの吐露がいじめや、いじめにつながる「特別視」につながるからです。

深い悩みの吐露は、相談者に対する予断を膨らませます。相手が特別な状況に置かれていることを知ることは、その友人がイレギュラーな存在であると認識されます。「出る杭が打たれる」日本社会において、「特別であること」は、善きにつけ悪しきにつけ、排除の対象になってしまう。だから、生徒たちはこれほどまでに「目立ってはいけない。変わった人間と思われてはいけない。」と考え、その信念通りに行動するわけです。

「おとなしくしていれば、間違いはない。」

多くの児童生徒がこのように考えているとすれば、トラブルに見舞われたり悩みを抱えたりした時に、周囲に相談しようとは思わないはずです。

児童生徒がこのような心理状態に置かれている中で、学校側が実効性のある呼びかけをすることは、難しいでしょう。「困ったことがあれば遠慮せずに相談しよう」と優しい声で、何度も何度もささやいたとしても、子どもたちが実際に行動に移すには、依然としてハードルが高いのです。

しかし、実はもう一つハードルがあります。そしてこちらは、根本的な問題なんです。

「ルールを遵守させる一方で、イレギュラーを救う」という発想

「日本の学校」とは、そもそも「一定の規律のもとで集団生活を円滑に営むことを至上命題としている組織」です。ですから、生徒には「ルールの遵守」が求められます。まず、「枠の中に収める」ことが最優先されるわけですね。

日本の学校のような組織においては、「相談」を必要とする生徒はイレギュラーな存在です。何事もなく日常生活を送っていてくれればいいんですが、あいにくトラブルに見舞われた。だから「相談」するわけですね。

すると、相談を受けた人(ここでは「教師」など、「学校サイドの人間」と仮定します)は、まず最初に何を考えると思いますか?

普通に考えれば「問題解決」と答えたいところです。しかし、現実はそうではありません。

正解は、「その悩みを、なかったことにする」です。

正確に言うならば、「イレギュラーな状態にある生徒を、レギュラーな学校という枠の中に適合させる」ということですね。

学校とは、

・決まったことを、
・予定調和的に、
・毎日反復すること

を目指している組織です。これを進学校では大学受験を念頭に、そうでない学校では生活習慣の確立を中心に行うわけです。

よくよく考えてみればわかるんですが、これは「サラリーマン養成組織」です。

毎朝決まった時間に起床し、朝食をきちんと摂り、会社に行って上司の指示に従い、定時に帰るか残業に励んで、帰宅する。その繰り返しです。

サラリーマンは、会社組織の中では歯車の一部ですが、学校における生徒もほぼ同様の扱いを受けます。学校や教師は「こちらの言うことを聞いていればうまくいくよ。心配しなくてもいいよ。」と言い、提示する枠から逸脱する生徒を「指導」したり、「やり過ごし」たりするわけです。そういった生徒を納得させる論理性はないし、生徒の逸脱を契機として枠の見直しを図ることもありません。

「社員」には、イレギュラーな振る舞いをされては困るわけです。でも、「ルールを遵守させる一方で、イレギュラーを救おうとする」ことって、かなり無理があると思いませんか?

「イレギュラーを救おう」という行為は、実際は「救っている」のではなく、「レギュラーへの同一化」を目指す試みになっているわけですから。学校という組織は「教育」という名のもとに「すべてを満たそうと」するから、齟齬が出始めるんだと思います。

「誰一人、とりこぼしなく」と言いますが、学校のそれは「同質化」(つまり「学校ルールへの帰属」)を求める働きかけなので、一定数のイレギュラーな存在が顕在化するのは、むしろ自然な動きであるわけです。

「我慢する? こっち側に来る?」

生徒の相談に対して、多くの教師がとる対応は、

・我慢させる。
・再適合を図らせる。

このどちらかであるケースがほとんどでしょう。

たとえば、ある生徒が「勉強する気にならず、学校に行きたくない」といった悩みを持ちかけてきたなら(実際は「相談」になる前に、「不登校」という事実が先行するんですが)、教師のとり得る対応としては、

①学ぶ意義を説く。
②社会はそんなに甘くない、と戒める。
③話を聞いてガス抜きをし、それを不定期的に(その生徒が卒業するまで)繰り返す。

このいずれかがほとんどで、これでダメなら時間だけが経ち、時数が切れて、さようなら、です。いずれにせよ、根本的な問題解決を目指すことはありません。

でも、本来なら他にもこんな対応ができますよね?

・在籍はそのままで、その生徒が学びたい方向性を尋ね、情報を収集し、そちらにエネルギーをかける生き方を勧める(「授業は卒業できればいいよ」程度で済ませる)。

・他校に転校を促す(「在籍移動の弾力化」が前提ですが、私はこの方向でのシステム改善を強く勧めます)。

どちらかが可能です。でも、そのどちらに対しても学校側が積極的に動くことはありませんよね? それは、学籍移動が難しかったり、学籍移動後の生徒にとってのメリットが少なかったり、転学を勧めるという行為に後ろめたさや敗北感を感じたり、そもそも教師自身が社会のことをほとんど理解していないためにさまざまな可能性を示してやれなかったりと、いろいろな理由があるからです。

だから、まずは我慢させる。なだめてすかして言い聞かせて、卒業まで凌がせようとするわけです。

それでもダメなら、再適合させる。ルールの枠を多少緩めるやり方です。「勉強する気にならず、学校に行きたくない」なら、

・教室以外の別室で自習していればいいよ。
・課題プリントを自宅まで届けるから、期日までに提出してくれればいいよ。

といった提案がなされます。

しかし、この方法が通用するのは義務教育までです。一般的に高校では「授業に出る」ことが履修の前提条件として課せられているため、仮に「教室以外の別室自習」であっても不可です。よって、教室に入れない生徒はいずれ退学扱いとなります。

問題は、「そのやり方で、誰が幸せになるの?」という疑問に対して、誰も、いつになっても答えてくれない点にあります。

問題解決には向かわない。
全体への、あるいはレギュラーな状態への適合を図る。

生徒に我慢させ、枠への同一化を提案し、ダメなら手放す。この状態で「いつでも相談して」と言ったところで、足を運ぶ生徒が出てくることはありません。生徒自身が、「相談しても何も変わらない」ことを十分に知っています。

学校に必要なのは、論理と本質の追求

次に、「生徒による相談事の内容と学校ルールとの齟齬」について見ていきます。

問題の1つ目は、「学校自体が内包する非論理性」にあります。

・なぜ、制服や髪型等の規定がこれほど細かいのか?
(「あなた」の髪型や服装は、これほどまでに自由なのに。)

・なぜ、教務室の入退室時の言葉遣いが決められているのか?
(「あなた」は私を「お前』呼ばわりするくせに。)

・なぜ、廊下で教師とすれ違ったら、生徒の方から挨拶しなければいけないのか?
(「あなた」は私を一瞥もしていないのに。)

・なぜ、ノートのとり方まで指示されなければならないのか?
(「あなた」が最善と考えている手法は、頭を働かせる点ですでに時代遅れなのに。)

・なぜ、授業中に眠ったら、あくびをしたら注意されなければならないのか?
(そんな授業をしているのは「あなた」なのに。)

一方で、生徒による相談ごとの内容は、「学校の前提を超えた領域」にあることも多いのです。

・勉強する意味がわからない。
・家庭や友人関係の悩みが大きくて、勉強どころじゃない。

「生徒は学校では勉強するのが当たり前」と考える多くの教師にとっては、上記のような生徒の悩みは検討する余地はないのかもしれません。

でも、考えてみてほしいんです。多くの生徒にとっては、勉強以前に家庭や友人関係がうまくいっていることの方が、ずっと大切なんです。「成績アップ」を最重要と考えている生徒ですら、その背景には「保護者からの過度のプレッシャー」に晒されていたりすることがあるわけです。

裏を返せば、「生徒一人ひとりにとっての最優先事項」をテコ入れすれば、学校生活全般はうまくいきます。よってフォーカスすべきは、

・個々の生徒にとっての最優先事項を把握し(あるいは自覚させ)
・テコ入れする(課題解決に向けて話し合う)

これだけです。生徒が抱える悩みの根っこの部分、本質的な部分に光を当て、ともに解決に向けて知恵を出し合う。教師は同伴者として考え続ける。

そして解決するのは生徒自身です。おそらく実際に解決しないまま、生徒が卒業を迎えることになるケースが多いでしょう。しかし、この経験が、生徒には生き抜く力を、教師には「最高の仕事をしている」という実感を与えるのです。

「相談の敷居を高くしたもの」とは、何なのか?

ここまで、生徒が悩みを相談できない理由と背景、そして打開策について述べてきました。

私は、「相談とは意思表示である」と思います。

「誰かに悩みを打ち明ける行為」と考えると重くなりがちですが、それ以前に、「自分の今の気持ちを伝える、現状での問題意識を伝える行為」ですよね?

学校という場では、生徒に対して「意思表示の機会」が実質的に与えられていません。それは今まで述べてきたように、「そもそも学校が、生徒による意思表示を実現させない要素が揃っている場所」であるからです。

教師は生徒にとって永遠の「評価者」であり、同調圧力と集団あるいはルールへの同一化が強く働く中で、些末な点にばかり目を向け、本質的な対話をせず、問題を先送りする。

ならば、「学校現場における生徒の相談の活性化」を形式的に図ろうとしても、実現しないでしょう。

よく考えてみてほしいんですが、人が大勢いれば、イレギュラーな存在が出るのは当たり前です。だから、学校は大勢の生徒をまとめる方向で動いてはならないんです。

本当の意味でのダイバーシティを社会全体で実現するためには、まず公教育である学校レベルで、

✓合理性や論理性の乏しい過去の陋習を見直し、
✓サラリーマン教育を捨て、
✓社会に「受け皿を作る」のではなく、「受け皿を必要としない」価値観を浸透させる。

つまり「学校教育段階で多くの若者が生き生きと行動できる現実を作る」ことです。

「皿からこぼれる」
「レールから外れる」

そんなふうに言われますが、そもそも誰も「こぼれてもいない」し、「外れてもいない」。

学校教育が、「君はこぼれている、外れている」と伝えるのをやめさえすれば、「困ったことがあったら相談して」などと言う必要はなくなるはずです。

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