105 教師の多忙化問題解消に必要なのは、長時間労働の是正?そうじゃない。本質は「教師のメンタリティ」だ。

皆さんこんばんは角松利己です。

2021年12月28日(火)の夜に、共育の森オンラインサロン「エンパワメント」主催のZoomセッションがありました。その日のテーマは

「長時間労働是正だけで『多忙化問題』解消になるのか?」

です。私は「教員の多忙化は、長時間労働が根本的な理由ではない」と感じていたため、このセッションに参加させてもらうことにしたんです。教師は、自分が取り組んでいる仕事に意義ややりがいを見いだせるのなら、長時間労働を厭いません。「長時間」と感じている時点で、意義ややりがいを見いだせなくなっていると考えたほうが妥当です。

この日の論点は2つでした。

「教師の多忙化」の何が問題なのか?

上記の問題提起では、「教師が忙しいから、さまざまな教育問題が解決されない」という言説があるという点が指摘されました。

「教師の忙しさ」と「教育諸問題の未解決」は双方向の因果関係を形成している、という指摘はユニークだなと思います。「双方向である」という点においてです。

ただ、私は「教育問題が解決されない根本的な理由は、教師の多忙化にはない」と考えています。それは前述したように、「意義ややりがいを感じられるかどうか」という点にあります。

セッション内で展開された議論は、「なるほど」とうなずける点が多く、有意義な時間だったと感じています。

☑「多忙化」ではなく、「多忙感」
☑「やりがい」ではなく、「徒労」
☑「本質」ではなく「表面的な働きかけ」に終始している点

このあたりに目を向けないと、いつまでも「教師の多忙化」の本質は見えないと思います。

「教師の自律性」の喪失

2つめの論点は「教師の自律性の喪失」です。

近年の学校を取り巻く社会状況や、それに対して拙速な対応を取らざるを得ない行政のありかたはもちろん「教師の自律性」を阻害するものです。

もちろん、学校も「組織」である以上、個人の自律性を奪う性質からは逃れることはできません。

ですが同時に、「教師自身が自ら自律性を手放そうとしている側面もあるのではないか」と感じます。

「教育」という試みが、基本的に「上から下へ」というベクトルを備えていること。
「教育」の名のもとに、不合理な試みが正当化されたり、思考停止状態で実施されたりすること。

「教育」とは、強大な力を備えた思想です。よって、教育を正しく扱うためには、このような「教育からの挑戦」を受けて立つだけのメンタリティが、私たち教師に備わっているかどうかが問われます。

日本人は、思考のバックボーンになる「思想」を持たない。
個としての人間を支える思想がない。

だからこそ、あれだけ「自己啓発的な」書籍やセミナーのニーズがあるとも言えるんですが、一時的ないし表面的に「思想」を学ぶことにとどまるので、「自己啓発ジプシー」のような状態に陥りやすくもなるんでしょうね。

特定の思想や宗教観を固持することは反動も大きく、手放しで推奨されることではありません。しかし、現実的には日本人の多くが、

「自身のよりどころとなるバックボーンがなく、苦しい状況が不定期的に訪れる」
「いろんな考えやスキルにその都度はまってしまい、迷走を続けざるを得ない」

といった状況に置かれていることも事実です。

様々な教育政策が、たとえば「自校内」という極めて狭い範囲においてさえ足並みがそろわないのも、それを実行に移す教師自身に「思想」がないからです。「思想」は、「理念」と置き換えても構いません。理念があれば、それが優先順位の1位に腰を下ろします。必然的に、優先順位の低い理念は、いい意味でスルーされることになるでしょう。

精神的な支柱を持ちながら、不断に自己点検を行うことができる。

そんなメンタリティが、日本人には、教師には必要なんじゃないのかな?と思います。

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