91 細川貂々の巧妙な誘導に、学校の「無駄」を再認識した件

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皆さんこんばんは角松利己です!

今回は、「学校の無駄」について記事を書きます。

いきなりですが、学校って「無駄」が多いですよね?

長く教師をしていると、「こんなもんかな?」と思いながらも、日々の忙しさにかまけて仕事のあり方について再考する機会を持たないことが多いと思います。

新型コロナウィルスは、社会だけでなく学校のあり方を根本的に見つめ直す、大きな機会になったはずですが、少なくない学校や教師は、おそらく「アフターコロナ」=「ビフォーコロナ」という図式で考えているのではないでしょうか?

でも、もし「コロナ以前の学校」に戻すことしか考えていないのであれば、おそらく学校は今後も苦しい立場に立たされるでしょう。

上意下達は変わらず、保護者からは批判され、生徒の信頼を失い、教師自身は被害者意識に囚われながら実りのない働きかけにあくせくするか、「これは絶対に違う」と思いながら変化を先送りにする現場の状況に愛想をつかすか心を病んでしまうか、いずれにせよ、「誰も得をしない」ことになるはずです。

その「アフターコロナの学校」を考える上で、漫画家の細川貂々さんが持論を展開しています。ご自身の息子さんが通う学校でPTA役員を3年間務めた経験をもとにした、実感のこもった内容です。記事を紹介しますね。

「子どもたちのため」は最強

この春、息子が小学校を卒業しました。

マンモス校なので、式には例年、2時間半くらいかかっていました。「倒れる子が出るから」と、先生が車椅子を用意して脇に待機し、「右から2番めの子がやばいぞ」とか連絡しあっていた。

昨年、その光景を目にして、保護者として「時間を短縮してほしい」と学校にお願いしてきましたが、「例年やってきたこと」と、とりつく島がありませんでした。「子どもたちのためにしていることだから」という思いを押し出されると、先に進まない

ところが、新型コロナの感染予防のため」となったら、一気に1時間に大幅短縮。怒鳴られ、泣きながらの練習もなくなり、息子は喜んでいました。

6年生までの3年間、PTA本部役員を務め、学校にはたくさんの「無駄」があると感じていました。前例踏襲が目的になり、行事一つとっても効率の悪い回し方が続いている。紙文化で、何でも印字してホチキスどめ。変えようとして、保護者へのアンケートを提案したときは、かたくなに拒まれました。保護者の意見は「クレーム」ととらえられているようでした。

耕論「これって無駄?」2020年5月29日(金)朝日新聞

この後、貂々さんは

仕事や家庭よりもPTA業務を優先してきたが、落ち着いて自分の日常を見つめてみると、健康、家族、仕事、友人などPTA業務以上に大切なものがたくさんあった

ことに気づいた上で、

周りから期待されていたり、責任を感じたりすると、人は自分の中の優先順位が分からなくなってしまうのかもしれません。

と続け、最後に

コロナを機に、「子どものためだから」と考えを止めてしまうところから、もう一歩進んで、「なぜそれをやるのか」「本当に子どものためなのか」と考えられる社会になってほしい。

とまとめています。

さて、皆さんはどう思いましたか?

細川さんは、PTA役員業務を過度に優先させていた自分に気づいたわけですが、その理由を「周囲の期待と自身の責任感」にあったと感じています。ここで終われば「自身の生き方や価値観の再考」どまりなんですが、最後は「子どものためという美辞麗句は教育現場の思考停止を加速させている」という方向でまとめているんですね。

「周りから期待されていたり、責任を感じたりすると、人は自分の中の優先順位が分からなくなってしまうのかもしれません。」と、ご自身のこととして語りながら、学校や教師が思考停止に陥っている理由も自身と同様に「周囲の期待や責任感の大きさにある」点に触れ、同情的に扱っているわけです。しかし、いずれにせよ明確な学校批判です。

教育とは自己陶酔

私はこう思いました。

教育とは自己陶酔である。

・長時間の卒業式で倒れる(かもしれない)生徒のために車椅子を待機させ、生徒の状況をつぶさに観察しようとする教師。

・生徒のコロナウィルス感染を心配し、大幅に卒業式の時間を短縮した学校。

・しかし、もし例年のように卒業式が行われていたとしたら、「厳粛な」式典催行のために子どもたちを怒鳴ることも辞さず、その結果泣き出す生徒がいても仕方がないと捉えている学校。

・自身の「文化」に固執し、文化外の意見には耳を傾けようとしない学校。

どれも、自己陶酔が原因ではないでしょうか?

確かに、「生命重視」は最優先です。ウィルス感染の危険性が低くなるのであれば、卒業式の時間を大幅に短縮することは必然です。でも、その試みには何のポリシーも感じられません。時間を短縮しても、そもそも大勢が集まる状況はなくなっていないからです。隣の席と間隔を空けて、とか、時間差で、という苦肉の策で対応しても、根本的に危険性は大して変わりません。

それに、小中高年代のいわゆる「児童生徒」たちは、ウィルスに感染しても発症に至るリスクが高齢者と比較してきわめて低いことも、専門家が指摘しています。心配なのは、家の外で感染した児童生徒が帰宅した後に高齢者を感染させてしまうことですが、そういった事態を避けたいのであれば、学校での卒業式は必然的に中止になるはずです。

問題は、「子どもたちのため」という美辞麗句に陶酔し、思考停止に陥っている学校や教師の現状です。だから、「針の振れ幅」が半端じゃなく大きい。

「2時間半かけて行う厳粛な式典」は、きっと多くの教師にとっては「素晴らしい」ものなのでしょう。だから、子どもたちを怒鳴ったり泣かしたりしても、仕方がないとなるわけです。「厳粛な式典」が優先されるわけですね。

「新型コロナの影響で1時間に大幅短縮された式典」も、学校や教師にとって見れば妥当性がきわめて高い。「生命重視」と言われたら、誰も反論できません。

では、「長時間の厳粛な式典のさなかに倒れるかもしれない生徒」の存在は、どう考えるべきでしょうか? 生命の危険は、たぶんないですね。だから、「もし倒れたら、車椅子」という対応を考えるんでしょう。

そこまでして長時間の式典に学校や教師がこだわるのは、「卒業生が一言ずつ言葉をつないでいく」といった、私自身も40年前に経験済みの、お決まりのセレモニー(確かに胸に迫るものはありますが)をぜひ続けたいという気持ちがあるせいでしょう。

夢見る教師

つまり、教師は「夢」を見ているわけです。

自身の経験してきたことを、今目の前にいる子どもたちに「追体験」させることで、「夢」を見ようとしている。自己陶酔です。だから、細川さんが「時間を短縮してほしいと学校にお願い」しても、「例年やってきたこと」で片付けるわけです。教師は、「自身の夢を追体験したい」という自覚がないので、「例年のこと」のような魔法の呪文に逃げる。これは、思考停止です。

現在は、今まであたり前のこととして学校が行ってきたことが、通らなくなってきています。運動会の種目の見直しあたりは、耳目を集める一例として顕著ですが、それにとどまりません。一方で、逆方向に針が触れるケースもあります。たとえば、「組体操が持つ危険性を認識しながら実施する」かたわら、「生徒の競争意識を低減するために徒競走は全員横並びでゴールする」ようなケースです。

学校教育には、論理がありません「利益を生む必要もなく、大人に反論できない年代の児童生徒を対象に営まれる」きわめて特殊な「学校」だからこそ、それが可能になります。

加えて、教師は学校教育における「成功者」です。私がかつて中学籍で担任をしていた時、「将来、教師になりたいと思っている生徒」が9人いるクラスがありました。彼らに理由を尋ねてみると、「小学校の時に素敵な先生と出会ったから」という回答が圧倒的に多かったことを覚えています。

私はその理由に深く納得しましたが、子どもにとっては「理想とするモデル」の存在が大きいわけです。彼らが出会った先生方は、彼らの良さを引き出してくれたのかもしれないし、彼らの辛さに寄り添ってくれたのかもしれません。だから、彼らが教師を志す存在たり得たのでしょう。

いずれにせよ、学校教育を通じて何らかの恩恵を受けた児童生徒が、教師を志すわけです。つまり、教師は常に「学校教育における成功者(もしくは学校教育に批判的にならない人たち)」なわけです。もちろん、例外の方もいるでしょうが、それほど多くはないはずです。

学校教育の恩恵を受けてきた成功者が自己陶酔した結果、

かつて自分が見た「夢」を目の前の子どもに見せるために、

「子どものため」という錦の御旗を掲げることで思考停止に陥り、

外界と隔絶してしまう。

「子どものため」ではなく、「かつてのあなたのため」ではないですか?

従来型の学校は、ない方がうまくいく

教育は、「教師の価値観を再生産するシステム」です。よって「内部浄化」は、ほぼ不可能です。教師が自身の取り組みを見直す行為は、少なくとも従来の教育観を根本的に疑うことから始めなくてはいけません。

そのうえで、「論理」が必要になります。論理がないから、針の振れ幅がこれほどまでに大きくなる。逆に論理があれば、「安全性を考慮した上での組体操を実施して児童生徒に大きな達成感を感じさせること」も、「徒競走で全員横並びでゴールすることがいかに無意味であるか説明すること」も可能になります。

学校教育がより現実的に、より効果的に、より主体性を持って進められるためには、「従来型教師を養成するシステム」を根本的に見直す必要があるでしょう。

私自身は、近い将来に「学校教育は解体する」と考えています。「学校教育に代わる生徒にとっての同伴者」がいれば、そしてその「同伴者」の理念やスキルが高ければ、多くの児童生徒は学校を必要としなくなるでしょう。

なぜなら、「自分が手に入れたいと願っている考え方やスキルを、常に提供してくれる頼れる存在」がいさえすれば、多くの人は幸せになれると信じているからです。道徳性や社会性は、その生徒がつまずいた時に「履修」すればいい話です。この考え方は、かなり健全であると思います。

つまり、「従来型教師」は不要になります。

そして、「学校という箱」もいらなくなる。日本の教育システムが解体するか、本質的な変革を伴うまでには、あと20年くらいはかかるでしょう。

でも、今回のコロナ禍に際し、生徒は「学校で授業受けなくても、いけるかも?」と感じ、保護者は「学校は対応が遅い上に家庭任せ」と憤る様子が至るところで報道されていましたよね。

私は「日本の公立学校教育システムは、なくてもいい」とは言いません。ただ、「変わらないんだったら淘汰されるべきだ」と思いますし、代わりの「担い手」はいくらでも出てくるはずです。そして、それは健全な方向性であり、歓迎すべきものだとも思っています。

「学校は丸投げ」「何度もケンカ」。家庭学習に向き合う、親たちの悲鳴が集まった

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5ec4c2eac5b65e2c45ec0dde?fbclid=IwAR0KfeK3B8f-r0gDcAx4NqvL3SxqLXXG2nWXt2rcKCdrB9msrJquTleu0BA

あなたが「従来型教師」なら、学校教育変革の足音は、まだ聞こえないかもしれません。だから私はこのようにお伝えします。

変わりたいと思った時に変わらないと、一生後悔しますよ。

変わりたいのなら、「教師を捨てれ」ばいい。

教師を捨てたあなたが教師をやり続けることは、最初は違和感を伴うでしょう。

でも、「教師を捨てた教師」は、生徒からも保護者からも信頼を得られます。

そんなあなたを煙たく感じるのは、「従来型教師」だけです(笑)。

あなたは、誰の方を向いて、仕事を続けたいですか?

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