30 ググればわかる時代に、教科の専門性を高める意味はあるのか?

ビジネスの知見

あなたのキャリア設計図は?

『転職と副業のかけ算』(moto,扶桑社,2019)には、「自分自身の市場価値を上げる方法」として、「3つのキャリア設計図」が挙げられています。

①出世によるキャリア
②職種のスペシャリストになるキャリア
③業界のスペシャリストになるキャリア

これを学校社会に当てはめて考えてみます。

今回は、
②「職種のスペシャリストになるキャリア」についてです。

職種=教科指導

「教師の職種」とは、何でしょうか? おそらくそれは、「教育職」、それもあなたがどの教科の専門性を認められた結果として採用されたか、という点を指すのだと思います。たとえば私が採用されたのは、「高校国語」です。ですから、教科指導としての国語がある程度はできている、と考えられています。

赴任する学校も、いろんな学校がありますから、異動のたびに勤務校や地域の求めに応じて必要な学びを提供する必要が出てきます。私の初任校は進学校だったので、生徒に負けまいとして大変でした。空き時間があれば授業準備にいそしみ、毎日職員室を出るのは夜8時。当時はその時間まで学校が開いていました。

その時間まで残っているのは、だいたい教頭と教務主任と私の3人。部活動指導も主顧問の同僚に任せきりでほとんど練習に出なかったことは今も後悔しきりですが、「私は国語教師として採用された。だから教科指導だけはきっちりやらなくてはならない」。その思いだけでやっていました。

教科指導能力がアイデンティティ

教科指導に関する学びには積極的に取り組んでいたと思います。今思えば笑ってしまいますが、現代文・古文・漢文と科目ごとに綺麗に指導用ノートを作り、補助プリントを作成し、図書館にある文学全集に目を通したり引用したり、とにかく「誰もがやるような一般的な授業準備に膨大な時間をかけて」いました(笑)。

残念ながら、こちらが準備したほどには生徒の反応は好ましくなかったのですが、とにかく新採用時から5年程度は、「職種のスペシャリストになるキャリア」にエネルギーを注いでいた時期でした。

「ディベイトが生徒の思考力を高める」と聞けば、社会人ディベイト選手権の決勝を見に、ビデオカメラを片手に千葉・幕張の会場まで泊りがけで行ったこともありました。

「この先生は、教科指導がうまい!」「この先生についていけば志望校に合格できる!」、もしそこまでいかなくても「この先生の授業はためになって面白い!」と言わしめれば勝ち、と考えていた頃です。

一歩、学校の外に目を向けると、いわゆる「教育のプロ」「教科指導のプロ」と言われる人が、大勢いますよね。「〇〇方式」のように名前を付けて、そのやり方を採用し、追随している教師集団が意見を交わして、と言ったように。私も何かあれば目新しく自分に合っていそうな方法に飛びついて、生徒に試していました。とにかく、当時は教科指導に精通していることがすべてでした。

ところで、あなたもこのようなキャリアを、つまり「教科指導のスペシャリストになる」というキャリアを目指しているのでしょうか?

確かに、このキャリアも究め続けることで大きな収穫につながることがあります。

たとえば、
教育雑誌への寄稿や専門書の上梓、
自治体や政府の教育関係の審議会メンバーとして招かれる、
論文を重ねて大学教授になる、
学校から離れて私塾を開いたり教育コンサルタントになったり。
いろんな道が開けてきます。

知識は共有される

しかし、わたしはその道は諦めました。もとより専門分野に関する力や探究的な姿勢が希薄だったからですが、そう思わせる理由もありました。

理由は2つ。1つは、「高校教師の教科専門性に高い価値を置いていないから」です。

従来の教授法は未来の動向を見る限り、力を持ちません。専門知識は共有され、その価値は暴落しています。

現在は、「意識を問う時代」です。「その知識を使ってあなたはどうなりたいのか、何を実現したいのか」、そのことが問われます。旧来の教師は知識を伝えるだけの「伝書バト」としての役割しか担っていません。一斉授業を捨て、生徒の主体性を育むために様々な働きかけを行うのなら話は別ですが、そうしないのであれば教科指導上の価値はほぼ無きに等しいと言えます。

私自身も43歳の頃に一斉授業を離れる試みを始めました。特に、文章を1行単位で追うような授業は止めました。このやり方は受動的な生徒を作ると同時に、教師にとって不要な満足感につながる危険性を持っていると感じたからです。

さらに言えば、そもそも高校教師程度の専門性を、私は高く評価していません。確かに特定の領域を知悉しているだけでなく、さらに飽くなき探求心を携えて生徒に向き合っている教師は大勢いますし、そのこと自体は素晴らしいと思います。そのような教師と出会うことによって、思いがけない未来が開かれる生徒も大勢いるでしょう。ただし、私はそうはなれませんし、なりたいとは思いません。

人間力と指導力

私には、「教科指導の専門性向上」を目指さない理由があります。

教師の力は「人間性」と「指導力」に大別され、さらに「指導力」は「知識」と「スキル」に分けられる、と聞いたことがあります。私の「知識」は標準レベルです。しかも、それは経験を積んできたからであって、もし経験が浅かったなら、標準以下だったかもしれません。

しかし、「専門知識の共有」が進む現在、私の「知識のなさ」は、あまり意味を持たなくなったと考えています。

むしろ、未来社会を生きる上で必須である主体性や問題発見能力を育むために、いわゆるアクティブ・ラーニング的な要素が教師には必要になっています。教える、のではなく、同伴する。生徒に寄り添ってさまざまな仕掛けを行う教師像を、追求したいと考えているのです。

さらに言えば、究極的には教科指導のプロは、塾講師の方々に違いありません。彼らはそれで生計を立てている。結果が出なくても給与が下がることのない私たちとは、真剣度が違います。

「学校教師である私たちは、教科指導以外の仕事が山ほどある。だから、教科指導がうまくいかなくても仕方ない。」

そう思われるのは嫌ですが、ある意味事実です。

私は有名な塾のカリスマ講師にはなれない。それでも、生徒に仕掛けることによって、「専門知識が共有された世界」の先を歩きたいと思っています。

人間力=本質を追求する力

そして、私が「職種のスペシャリストになるキャリア」を志向しない2つ目の理由。
それは、スペシャリストになるよりも、ずっと大きな魅力を感じる生き方があるからです。

つまり、「本質を伝える先輩」としてのキャリアです。

「未来はどうなるのか?」
「価値はどのように移行していくのか?」
「自分の人生を生ききるためには、何をすべきか?」

生徒が長い人生を生ききるうえで、たぶん大切と思われる事柄について、さまざまな形で伝えていきます。これを行う上で、私が国語教師であることは非常に大きなアドバンテージです。さらに、クラス担任を持つ機会があれば、HRを中心に、学校生活の至る所で「本質」を伝えることができる。これが、ここ数年の私にとっては教師の醍醐味と言えるほどの輝きを放っています。

教科指導よりもずっと影響力が大きく、生徒の考え方にダイレクトに働きかける。私は本質の追求と共有をライフワークにしたいと考えています。

いかがでしたか?

私が自身の専門教科である国語を好きであるように、あなたもあなたの専門性を愛し、さらなる深化を不断に続けていることでしょう。あなたがそうすることによって、あなたの「市場価値」は高まっていくはずです。

しかし、私は自身の教師としての価値を「本質の追求」と「教科指導のスキル」に置く方向にシフトしました。それが、赴任先がどこであっても、その目指す方向性や学校の雰囲気の影響をほとんど受けることなく、落ち着いた気持ちで自信をもって生徒に臨める方法だと思ったからです。

あなたは、どうしますか?

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