68「私は教師だから」は、やめにしましょう

仕事で成功する

皆さんこんばんは角松利己です!

今回は、「教師の限界は、教師自身が決めている」という話をします。

まずは、問題です。

ある生徒を放送で呼び出そうとしたけれども、来なかった。

こんな時、あなたならどうしますか?

1.該当生徒が来るまで数回、呼び出しを続ける。
2.該当生徒に最短で会う可能性のある同僚もしくは生徒に、要件を書いたメモを渡してもらう。
3.その場では諦め、該当生徒の帰宅後を見計らって電話をかける。

さて、どうしますか?

正解は・・・・・・

ケースバイケースです。

ただし、私なら「該当生徒に会いに、教室に出向く」という選択をします。

こんな話を教務室ですると、「いや、そこまでやる必要ってあるんですか?」そんな声が聞こえてきます。

しかし、私の答えは「Yes」です。そう、そこまでする必要が、確かにあるんです。

隗より始めよ

教室に出向くメリットは、たとえば次の5点です。他にもあるかも知れませんけど。

・エコノミー症候群の予防(笑)。
・教師の気分転換につながる。
・該当生徒がいる場所(たとえば教室)の様子を看取る機会になる。
・教師の側の緊急性や本気度を、生徒に感じてもらう。
「用事のある人が相手のもとに足を運ぶ」という「原則」を理解してもらえる。

お気づきかも知れませんが、下に行けば行くほど、教師自身が教室に出向くメリットの重要度は、上がっていきます。

私が最も重視している理由が、「原則を理解してもらえる」という点です。

教師は通常、生徒に用事がある場合はその生徒を自分のもとに呼ぼうとします。つまり、教師自身は動きません。教務室の自分の席に座り、生徒が来たら、入口から自席までどれほど距離が離れていようとも、自分のもとに呼びつけます。その要件は? もちろん、「教師の都合」です。

学校は、こういうことが一般的に、かなり以前から行われているところですが、「教育的配慮」がなされているとはいいにくい状況です。

私が幼い頃教わったのは、「用事があるなら、自分から相手の所に出向きなさい」というものでした。大人がそのようにするから、子どもは「そういうものか」と考えます。だからその子どもが大人に成長した時に、誰かに用事があるときは、たとえ相手が自分より目下の人間であったとしても、自分から足を運ぶようになるわけです。

で、それが繰り返されて「文化」になる。良い習慣は、そのようにつながっていきます。

職業が生き方に映し出される

「教師が生徒を呼び出す」というのは一例ですが、「私は教師だから、自分からは生徒のもとに足を運ぶことはしない」に類するようなケースは多々、見られます。

「私は教師だから、生徒の機嫌は取らない」
「私は教師だから、保護者のクレームは受け付けない」
「私は教師だから、掃除はしない」

「私は教師だから、そんなことはしない。」あるいは、「そこまでしない。」

「私は教師だから」という呪文は、教師とそれ以外の人間との断絶を助長する考え方です。

こういった考えが拡大すると、「ここは学校だから、こんなことは認めない」「学校だから、そこまではしない」というように、どんどん世界を狭くしていくことにつながりかねません。

もっと世界を狭くしましょうか?

「私は教師だから、羽目は外さない」
「私は教師(公務員)だから、そんなことはしない」

ここまでくると、完全に「チャレンジ精神」は失われていきます。その結果、教師は輝きを失います。そして輝きを失った教師は、悲惨です。生徒からの信頼や憧れの気持ちを得られないからです。

あなたは、「教師である」ことを「チャレンジしない」理由にしていませんか?

次のことを覚えておいて下さい。

あなたの限界を決めるのは、あなた。

その一歩をなかなか踏み出しにくいのは、公務員の宿命かも知れません。しかし、公務員こそ、その「一歩」をどんどん踏み出す必要があるんです。なぜなら、公務員とは「最大多数の最大幸福」を行動指針に据えて生きる人種だからです。

固定観念を打破し、多くの人へ価値提供できるアイディアを考え、それを実行する。ルーティーンをそつなくこなすことは、教師の仕事ではありません。

教師だからこそ、チャレンジする。

あなたが「教師であることを捨てれば」、チャレンジが可能になります。毎日ひとつで構いません。新しいことに、チャレンジしましょう。あなたの世界を、もっと広げるために。

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