19 教師は世間を知らずに死んでいく。あなたはどうする?

セカンドキャリアを構築する

私は早期退職をして、起業したいと考えています。

理由は4つ。

1.時間的・空間的・経済的自由を得る。
2.人に雇われない生き方がしたい。
3.大人を相手に仕事をしたい。
4.上記以外の理由

4つ目の理由は最後に話します。
まず最初に挙げた3つの理由から説明しましょう。

誰もが憧れる生き方

それが、「時間的・空間的・経済的自由を得る」ことです。

時間から解放されること。それは、勤務時間が決められていないことを指しています。

教師であれば、一応、「8:30から17:00まで」のように勤務時間が決められていますよね。
しかし現実的には、出勤はもっと早い時間になり、退勤ははるかに遅い時間になることがよくあります。時間から解放されることは、「好きな時に、好きなことをする」生き方を意味しています。仕事をしたいときに数時間、集中して働き、あとは自由。何に使ってもOKです。最高ですよね。

「空間的自由」は、働く場所を選ばないということです。つまり、独立です。個人起業家として、自宅のリビングで、気分を変えるならスタバで、地域の図書館などの公共施設のホールで、場合によっては旅先のホテルで、あなたがいる場所がそのまま仕事場に早変わりです。ネットを使ったいわゆる情報ビジネスが、それにあたります。

教師であるうちは、日々の通勤からは逃げられません。私は現在、車で片道30分かかる勤務先に通っていますが、過去すべての勤務先の中では「最長」です。同僚には、片道2時間近くかかる人もいます。それはやむを得ない事情があるからですが、私の中では「なし」です。車で往復1時間。この時間があれば、あれもできるし、これもできるのにと悔しい思いをしています。現在は車内でビジネス関係の音声を聴くことで、時間の有効利用を試みているため「もったいない感」はそれほどでもありませんが、いずれにせよ、通勤にかかる時間は非常に貴重に感じられます。

そして、経済的自由。言うまでもなく、食べるに困らないだけの収入に加え、「欲しい」と思ったら躊躇なくその品が買える程度の経済力があれば、最高ですよね。よく言われるたとえですが、「外食の際に、値段を気にせずに注文できる」ことができたら、今の私にとっては結構すごいことだと思います。普段はちょっとの買い物でも値段が気になる方なので、これが実現できたら、王侯気分です(笑)。

教師はしょせん、サラリーマン

教師はしょせん、「サラリーマン」です。この感覚は、年を重ねるごとに強くなってきています。

教師は公務員です。しかし、教師になってから10年くらいまでは、私は公務員という意識がほとんどありませんでした。お役所のような場所で働く公務員と違い、教師は独立性が非常に高い職業です。授業や部活動、クラス経営の際は、ほとんど1人で多くの生徒たちと向き合います。職員室以外では、他の大人はほぼ介在しません。個々の教師が責任をもって授業を行い、部活動指導を行い、クラス経営を行っているのです。さらに、新卒であろうと退職前であろうと、誰もが「先生」として扱われます。どんなにキャリアが浅くても、生徒は一人前の教師として扱ってくれるのです。教育公務員とは、このように非常に特殊な位置づけになります。

しかし、教師になってから10年が経つ頃になると、サラリーマンとしての教師像が見えてくるようになりました。ただ、これは単に「ビジネスライクな振る舞いをする教師」のことを指しているのではありません。「個々の教師の振る舞いの総体」というよりも、学校というシステムが硬直化し、トップダウン傾向がかつてに比べてかなり強くなってきていることを指しています。

私が新採用の頃、今から25年ほど前は、職員会議でも管理職と組合の教師たちが怒鳴りあいの議論を展開していました。ヒートアップしてくれば、互いに呼び捨てでもお構いなしです。表面的には管理職もヒラの教師も対等の関係でした。

しかし最近の教師集団は非常に「静か」です。
職員会議の方向性は、直前に行われる数名の役職付き教師と管理職との間のやりとりで、決められてしまいます。勤務時間を気にしながらの進行であるため、質問することがはばかられているような雰囲気です。会議は議論の場としての役割を果たしていません。結果、新しいチャレンジどころか、微調整程度の修正案も提示されないまま、時間だけが過ぎていきます。

私が言う「サラリーマンとしての教師」とは、「個々の教師の意見が吸い上げられないような雰囲気が蔓延している学校で、その日その日を機械的に回しているだけの教師」のことです。そして50歳を過ぎた今、この傾向に我慢ができなくなっています。

ですから、人に雇われない生き方を志向したいのです。

「意見を取りまとめる」行為には、価値を感じません。そもそも教師は1人1人が「一国一城の主」なので、意見のとりまとめは事実上不可能です。私は、周りとそつなく付き合って、自分のやりたいこともできずに教師を終えたいとは思いません。自分が正しいと思うこと、より高い価値を生むと信じていることを仕事にして、生きていきたいと願っています。その最短距離が、独立です。

世間を知らずには死ねない

そして、ビジネスをやるなら「大人相手」です。
学校の中では、誤解を恐れずに言えば、未成年を相手に思いのままに権力をふるえるのが教師です。しかしその結果、多くの教師が説得力を失いました。生徒に言って聞かせるとき、そのほとんどはきちんとした理由を伴いません。学校という閉ざされた文化の中でしか通用しない論理をふりかざし、生徒を従わせるのが教師です。仮に説明を求められたら、ほとんどのことについてきちんとした説明ができないはずです。

さらに悪いことに、教師の打ち出す方向性は、効率的でも効果的でもありません
「成果とは、限られた資源で最大限の効果を発揮するもの」というのが一般社会の認識であり、誰もがそのことを追求しています。しかし、その当たり前のことが学校では実現しません。

学校以外の場は、大人同士の交渉の場です。そこは少なくとも利益を追求する限り、合理的な判断がなされる場です。互いに最大限の利益を享受できる関係性が築ける場に、私は身を置いてみたい。誰もが利益を受け取れるような価値提供の在り方を追求したいと思っているのです。

残念なことに、学校はそのような場にはなっていません。教師と生徒がともに勝者であるためには、信じられないくらいの数のハードルを乗り越えなければなりません。

では、いよいよ第4の理由についてお話ししましょう。私にとっては、これが最大の理由になります。私が起業を目指す理由。それは、

「私がしたいことを、私を必要としてくれる人に提供することができるから」

です。

生徒は学校を求めていない

学校は、いろんな生徒が集まってくる場所です。たとえば、一口に「進学校」と言っても、中には「センター試験は受けない。高校卒業後は就職する。」という生徒が数名いますし、逆に「困難校」といわれるところでも、数名は難関大学に進学する意思表示をする生徒が混じっているものです。

多くの生徒にとって、大学とは「みんなが行っているから私も行かなければならないと思っている場所」という位置づけです。卒業後の進路実現のためにどうしても通過しなくてはならない場所と考えている生徒ももちろんいるでしょうが、それは必要だから行くのであって、ワクワクした気持ちで学ぶため、ではありません。

進学校には、学校の授業が自身の求めるレベルにない、あるいは受験に必要ないなどの理由で、特定の科目については真剣に受けない生徒が少なからずいます。彼らは賢いので、授業はある程度は聞いていますし、教師に支持される振る舞いを知っているのでそつなく対応しています。しかし、彼らが聞いている授業は、彼らが求めているものではありません。

進学を考えない学校の生徒は、別の意味で授業を欲していません。高校卒業後、すぐに就職したり専門学校に進んだりする生徒に、数学の証明スキルは必要ないのです。彼らは楽しい授業を求めていますが、彼らのニーズに合わない授業は、もちろん楽しくありません。教師自身も、自身の行為の意味付けを必死に行いながら、日々の授業に臨んでいるのです。

しかし、もしあなたが教えたいことや広めたい価値観を、熱心に聞いてくれる人がいるとしたら、どうでしょうか? あなたが売りたい商品を「それが欲しかったんです。売ってください!」と言ってくれる人がいるとしたら、どうでしょうか? あなたが良いと思うもの、提供したいと思う価値観を支持し、共有してくれる人たちが大勢いるとしたら、どれほど幸せを感じるでしょうか。きっと、心から楽しく、充実感があふれ、ワクワクが止まらない、そんな毎日を送ることが想像できると思います。

学校とは、多種多様なニーズに対して一様の価値しか提供できない場です。そしてさらに時間を捻出して、一斉指導とは別に個別指導を行うといった、きわめて効率の悪いシステムで運営されています。現代の学校が抱えるシステムは、誰もハッピーにしません。生徒は自分が学びたいことを学びたい。教師は生徒のニーズに応えたい、もしくは自分が大切に思う価値観を伝えたい、いずれかです。

しかし、すべての生徒のニーズに応えることは不可能です。ならば、自分の価値観を伝えることを選びたい、と言いたいところですが、それも困難な状況にあります。

理由は2つ。
ひとつは、生徒の心を震わせるほどの価値観を提供できる教師がいない、ふたつめは、そもそも自身の価値観を伝えたいと思っている教師がいないという点です。

相思相愛を仕事にする

学校という場は、「相思相愛」で結ばれていないのです。「雑多な人間を集めて働きかけるから社会性が身につくんだ」という考えもあるでしょう。しかし、相思相愛のパワーには勝てない。現在の学校の在り方は、明らかにコスパが悪すぎます。それどころか、生徒や家庭の多様性を今なお枠に押し込めようとすることで、弊害が出てくる始末です。

「必要な人に、必要なものを」。この理念が実現できる場は、学校にはありません。社会に出て、ビジネスをすることによってしか得られないのです。

「必要な人に、必要なものを提供する」こと。これはとても幸せなことです。
あなたがやりたいことを、それを求めている多くの人に提供するだけのことが、どれほどの実りをあなたの人生にもたらすのか、想像してみてください。私は、それをしてみたい。そうなれば、私にとって仕事と私生活の境界はなくなります。仕事は私生活とつながり、人生そのものとつながる。それは、私がこの世に生を受けた意味を持ち始めます。だから、私は起業を目指す。教師の仕事とパラレルで。時間をかけて、準備をします。あなたも、ぜひ行動してみてください。

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