95 ホリエモンと落合陽一が予測した、学校教育の未来

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2人が語った、未来の学校教育

ホリエモンと落合陽一が学校教育の未来を予測して、何年経っただろう?

・・・忘れました(謝)。でも、今回はこの話をさせてください。

数年前に、ホリエモンと落合陽一の対談記事を読んだことがあります。その内容のうち、一番頭に残ったのは、「学校教育は30年以内に解体する」というものでした。その言葉が私の記憶に残った理由は、「本当にそうなるかもしれない」と、強く確信していたからです。

そして実際、解体のスピードは思ったよりもずっと早く進んでいます。

「100年人生」の各ステージで必要な学びを

リンダ・グラットン&アンドリュー・スコットの『ライフ・シフト』が2016年秋に日本で出版されて以降、同書のサブタイトルにもあるように、「100年時代の人生戦略」について、真剣に論じられるようになりました。

『ライフ・シフト』には、こうあります。

私たちの人生は、「教育→仕事→引退」という人生から「マルチステージ」の人生へと変化する。それに伴い、「スキル」「健康」「人間関係」といった「見えない資産」をどう育んでいくかという問題に直面することになると。生涯を通じて、「変わり続けることの覚悟」を問われる時代がやってくるということです。

平均寿命は伸び続けています。100年人生の中で、私たちは何度となく「ステージ」を変えていくことになるでしょう。教育の本質は、「知識やスキル」ではなく、「学び続ける姿勢そのもの」です。教育の価値は、今まで以上に重要になってくるはずです。

「複業先生」というシステム

2021年に、もと小学校教師が「複業先生」というサイトを立ち上げました。「テクノロジーとコミュニティの力で学校と社会をつなぎ合わせたい」。この思いを実現させるために、IT教育の推進を支援する株式会社LX DESIGNが、人手不足に悩む学校と、学校の仕事に興味がある人をつなぐプラットフォームです。

「学校における働き方改革をサポートする」という目的で、1時間単位からの柔軟な勤務形態を登録制で行っているんですが、登録のハードルとして「教員免許」を課していない点が特徴です。

私自身は、「先生」という役割を果たす上で、教員免許は必要ないと考えています。教員免許は一定のカリキュラムを履修し、単位さえ取得していれば与えられるものですが、「一定のカリキュラム」レベルの内容は、今やどこででも学ぶことが可能です。

むしろ、「専門性」という観点から言えば、一般的な教員よりも、ずっと専門性が高い人はいくらでもいます。つまり、「教師」とは、教員免許を取得して採用試験に受かった人を指す呼称であり、それ以上の意味を持ちません。簡単に言えば、「お墨付きをもらって教えることを許可された人たち」です。

「お墨付き」は、専門性の高さと直接関係を持っていません。よって、「先生」という役割を果たす上で、教員免許は必要ないと考えます。

「複業先生」というシステムでは、登録すればだれでも「先生」になれます。もちろん、安定した仕事であるとは言えません。ですが、もともと「複業先生」に登録する方々は、「専門性」と「教育への何らかの思い」を持った方々です。「先生」というポジションですら、彼らにとっては、「複数ある仕事の一つ」に過ぎません。むしろ、失うものがない状態で取り組むため、自由に振る舞うことができます。

「複業先生」に類する、いわゆる「教育ビジネス」は大きな市場です。何十年も前から、学校教育には様々な教育ビジネスが姿を変えながら介在してきました。

ポイントは、「学校の穴を埋める」という視点に基づいているという点です。学校のようなきわめて保守的なシステムに民間業者が食い込むためには、「先生をサポートする」というスタンスが欠かせません。

「私たちに、普段は忙しい先生方の手の回らない部分をケアさせてもらえませんか?」。このアプローチがぶれることはありませんでした。学校は知識注入と情操教育を、外部業者は主にキャリア教育を。双方が役割を分担し、情報のやりとりを通じて蜜月関係を維持してきたと言えるでしょう。

このように、キャリア教育の外注化は続いてきました。

少子化が進む現在、「教育」は最大かつ最後の投資先です。学校教師に限らず、多くの人たちが教育産業に関わろうとしているわけです。

誰もが教育者になる

ところで、私たちが人生の最後に望むことって、何だと思いますか?

私は「自分の遺伝子を残したいという思い」だと思います。

「遺伝子を残す」というと、すぐに思い浮かぶのは「自分の子どもに、何らかの影響を与えること」でしょう。確かに、私たちは善きにつけ悪しきにつけ、自分の子どもに対して何らかの働きかけを毎日のようにしています。そして、こういった行為を止めることは、ほぼ不可能と言えます。

もし、子どもがいなかったら? その場合、影響力を行使する対象は、たとえば職場の部下になるでしょう。職人にとっての弟子もしかり。習い事教室の先生もそうです。

では、身近に影響力を行使する対象がいなかったら? たとえばオンラインで自身の専門分野について、それを知りたいと思っている人に伝えることはできるでしょう。そして仮に何も教えるものがなかったとしても、ある人はブログで雑感を綴ったり、新聞に投稿したり、いずれにせよ誰かに何かを働きかけるに違いありません。

つまり、私たちの最終的な目的は、「誰かに何らかの影響力を行使すること」であり、その「影響力」とは「自分にとって価値ある思いや技術」ということになります。これが、「遺伝子」です。

世の中の人たちを、「先生と、先生以外の人」というくくりで捉えることは、すでに不可能です。それは、人間の本能としてもそうであるし、時代の趨勢としてもそうであると言えます。つまり、「誰もが教育者になる」わけです。現在は、その勢いが加速してる状況にあると言えるでしょう。

専門性を磨けば、誰もが「先生」になれる

同時に、

人生のステージにふさわしい「先生」を求めてさまよう旅が始まる。

私たちの誰もが、この2つの観点を頭の中に置きながら生きていくことになるわけです。

学校教育は解体する

「複業先生」に登録されている方々は、1時間単位で対象生徒に何らかの知見を与えることのできる人たちです。彼らは、一発勝負の世界に生きています。おそらく、話す内容は言うまでもなく、プレゼンの仕方も魅力的であることが推測されます。高学歴で民間企業のノウハウを知り尽くした「先生」は、社会性や柔軟性に富み、人間的な魅力を駆使して、生徒に夢とアイディアを語るでしょう。

対して、学校教師は学歴不問、狭い世界の中で偏りのある価値観とともに生きてきた人種です。社会性や柔軟性がなくても、学校の中でなら堂々と振る舞えます。仮に魅力にあふれる個人がいたとしても(もちろん、そういう教師は多くいますが)、従来型の学校システムの中ではその魅力は開花せず、革新的なアイディアも実行に至ることはありません。残念ですが、学校とはそのようなシステムです。

ただ、それでも教師が仕事を奪われることはありません。一度採用されれば、定年まで大過なく過ごせます。そのために教師がしていることは、

・教科の専門性を今まで以上に高めること。つまり、社会や生徒の人生に寄与しない力をつけること。

・教師として立派に振る舞うこと。つまり生徒を管理し、しつけること。

・保護者など外部からクレームを受けないように細心の注意を払うこと。

・同僚や上司と波風を立てないようにつきあうこと。

こういったことです。つまらないですよね?

従来の学校教育システムを踏襲する教師は、生徒をダメにします。その結果、学校教育は形骸化していきます。最終的には、学校教育は解体されるでしょう。それは、目に見えない解体かもしれませんが、いずれにせよ社会や未来のあり方から乖離することは間違いありません。

あなたは、それで構いませんか?

問題は、あなたがその状況に満足できるか? ということです。

本当はもっと現実社会とリンクしたことを伝えたいのに、本当は生徒の表面的な問題に目を向けるんじゃなくて問題の背景にある本質に近づきたいのに、本当は不条理な外圧に振り回されることなく学校の理念を理解してほしいのに、本当は人間関係のしがらみをきにせず、正しいことを正しいと言いたいのに。

あなたが、そういった状況に満足しているとは思えません。いえ、教師なら満足している場合じゃありません。あなたは生徒にとって、最も身近なモデルなんです。

あるいは、あなたが自身の取り組みに胸を張れていますか? という点です。

合理的に仕事を進めたいのに、社会のあり方や未来の動向から取り残され、いつまで経っても生徒の服装や言動を嘆いたり、あるいは大学に何人送り込んだということが教師自身のステイタスになったり、そのようなことをあなたの仕事の中心に据えるんですか? ということです。

学校は、理念を掲げるべきです。そして、理念に基づいた働きかけを、生徒に対して行っていくべきです。理念がきちんとしていれば、その学校に通うすべての生徒に対して、彼らの希望を実現するための働きかけができるでしょう。

ここから先は、私が理想とする学校教育のあり方についてお話しします。これは理想であるとともに、ある程度の現実味をもって実現可能なレベルまで上げていく必要があると感じています。

未来の学校教育

私の考える「未来の学校教育に果たす役割」は、大きく2つあります。

一つ。学校は「安心・安全」を時間的・空間的に提供する場になる、ということです。社会や家庭環境の多様化は、今後ますます進んでいきます。そんな中、もし子どもたちにとって安全な場が学校しかなかったとしたら、学校は進んでその役割を担っていかなくてはなりません。

子どもたちは1日の半分を家庭で、残りの半分を学校で過ごします。ならば、学校は彼らが穏やかな気持ちでいられる環境を提示しなければなりません。校則という概念はおそらく真っ先になくさなければならないでしょう。

二つ。学校は、個別最適化された教育を行い、子どもたちが成長する同伴者としてシステム化されなければならない、ということです。100年人生を幸せに過ごすためには、子どもたちが変化し続けることを前提とした上で、各ステージで最善を尽くす姿勢を身につけさせたいところです。

一つの教室内で、隣り合っている生徒が全く方向性の異なる進路について語り合い、励まし合う。教師は生徒によるすべての決定を受け入れ、どうしたらその夢が実現するのかをともに考える。これが、本当の意味での多様性受け入れです。子どもたちがたどり着いたステージで、再び夢は変わる。

しかし、そのとき、教師は彼らのそばにはいられません。成長した子どもたちがその都度、新たなステージで人生に向き合う力をつけるのは、「今ここ」でしかないのです。

では、学校がこのように変わろうとしていく中で、教師はどうすればいいか?

結論を言えば、教師はコーディネーターになることが求められます。

多様性の尊重。これは望ましい社会のあり方です。同調圧力から解放されることで、人との違いにさほど目を向けることもなくなるでしょうし、誰かを異端視したり自分をさげすむことも、人を過度に羨むこともなくなります。少しくらいのことでいちいち目くじらを立てて問題をあげつらうようなことをしていたら、その人をつぶしてしまいます。

変化することが前提。これは現実であり、自然な姿であるとも言えます。人の価値観は変わります。職業や興味関心だって、成長や加齢とともに変化するのは当たり前です。だったら、変化を受け入れ、その時々でベストを尽くすしかありません。

そして、子どもたちとのつきあいは、きわめて短い。彼らは、いつかは離れていく存在です。彼らがいくつになっても覚えていてほしいことは、変わり続けることが当たり前であり、変化に順応し、自分を望ましい環境に置こうとすることこそに価値がある、ということです。

そのためには、教師であるあなた自身が、学校の価値観から距離を置き、社会の仕組みを知悉し、物事の本質を理解し、最も弱い存在に対して最も優しく接する必要があるのです

だから、あなたはコーディネーターであらねばならない。子どもと子どもをつなぎ、子どもと大人をつなぎ、大人として社会とつながり、子どもと社会をつなぐ。あらゆる職業に精通し、生徒と一緒に「いいね。どうしたら、それが叶うだろう? 一緒に考えてみようか。」と言えるような人間になってほしい。

近い将来、きっとそんな社会がやってくると思います。学校教育は、そんな社会の先頭に立ちます。だから私たち教師は、力を蓄えなければなりません。そのために、まず最初にやることは、あなたが従来の学校教育を捨て、一個人として魅力的になることです

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