102 真のインクルージョンへのアプローチ

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インクルージョンとは、「包括」「包含」「一体性」などの意味を持つ言葉です。ビジネスの世界では、企業内の誰にでも仕事に参画・貢献するチャンスがあり、平等に機会が与えられた状態を指します。

https://www.ashita-team.com/jinji-online/personnel_management/8397

皆さんこんばんは角松利己です。

今回は、「障害を持つ教師が担任をすること」について、私が思うことを話します。なお、この記事は2021年8月22日に教育関係者のFBグループに投稿したものです。

同日14時に、ある都道府県の教員で障害をお持ちの方が、上記FBグループ主催でセッションを行いました。テーマは「障害のある教員が担任を持つ意義やその壁を考えようー障害がある教員は学級担任ができないという事実から学ぶー」というものでした。

私はそのセッションに参加できなかったため、事前送付された関連資料を読み、セッション前にFBに投稿しました。以下、私の見解です。

尽きない不安

「障害を持つ教師が担任をすること」について の最大の課題は、「生徒と保護者、管理職の不安の軽減」です。担任に障害がある場合、緊急時における周囲の不安は常に付きまといます。子どもの安心・安全が最優先されるなら、障害を持つ担任に対して不安を覚える人たちは、そのことを根拠に反対意見を述べるはずです。

障害を持つ担任が実現する条件は「適切な合理的配慮の提供」がなされることですが、一般的に管理職はリスクを冒しませんし、私が管理職の立場でも、担任につけることには躊躇するでしょう。

「障害を持つ教師自身が担任を希望しているから」という理由づけは、担任に限らず、職務内のどの役割に任命するケースにおいても、残念ながら説得力に乏しいと思われます。「意欲は何物にも勝る動機」であると私は思っていますが、それでも簡単にOKは出せません。外堀を埋める必要があるでしょう。

では、障害を持つ教員が担任を持てるようになるには、どんな考え方や条件が必要になってくるでしょうか?

不安を打ち消せ

1:教育的効果が高いことを打ち出す

「教育的効果」は学校教育の「最優先事項」であり、説得力が高いものです(ただ、私自身はこの言葉は好きではありません。効果だけで測れないものがあるからです)。生徒対象のインクルージョンはよく言われますが、これは本来「学校教育全体を通して」行われるべきものです。

よって、インクルージョンの対象は生徒だけでなく、「教師」のような学校生活にかかわるすべての人たちにまで拡大して考えた方が理解されやすく、また定着しやすい考え方だと思われます。障害を持つ教員が担任を務めることは、権利と平等性に関する意識を最大限に高揚できる機会であることに疑いありません。

さらに、「いじめ根絶」や「こころのユニバーサルデザイン」を実現するために、相互扶助的な営みや雰囲気を醸成する必要があることを伝えることにもつながります。

2.権力闘争にしないこと

どんな考え方にも、賛同者と抵抗者がいます。ある動きが目的化してしまうと、実現に向けた過程で、「都道府県教委+管理職」vs「抵抗運動」のような構図ができてしまうものです。しかし、本来は一緒になって考えていかなければならない立場にある者同士です。よって、敵対的構図を作るべきではありません。運動を推進する人たちが少しずつ仲間を増やし、活動を組織化し、継続的に申請を行うことが肝要です。

3.内部変化より外部変化

上記2と関連していますが、公教育は外圧に弱いものです。理由はここでは触れませんが、自明のことです。私は、現状の学校教育に内部変化を期待していません。日本の学校教育において、「教育」とは「保守」であり、「既得権益の維持」に他ならないからです。そうでなければ、子どもたちはもっと楽しそうにしているはずです。いえ、教師自身が前向きなアイディアを実践しているはずです。

4.個々の教師の意識変化

教師は職務性質上、マウントを取りやすい人たちであると考えます。理由は「そこそこの成功者集団であること」と「指導が仕事になっていること」の2点です。

「学校生活のかつての適応者」が学校という場で、常に「この子のためにやっている」という感覚で主観に基づいた善意を行使すれば、マウントを取りやすい心理に囚われるのは当然です。よって、同僚に障害を持つ教師がいた場合、生徒の利益不利益を短絡的視点で語ったり、子どもたちの前でその人をこき下ろす言動を行ったりするケースが想像されます。

教師の意識変化にとって大切なことは、外の世界の空気を吸う機会を増やすことです。

障害を持つ教員が担任をすることには、圧倒的な「教育的意義」がある

まとめて言うと、障害を持つ教師に担任を務めてもらうことには、次のような利点があります。

・一日の半分を過ごす学校という場で
・子どもたちに対して払うようなデリケートな配慮を抜きにして
・子どもたちの目前で展開され
・リアルなインクルージョンが体感できる


つまり、低いコストで、子どもたちに対して、圧倒的な教育的効果が望める点にあるということです。

「低コスト」という機械的な物言いはご容赦ください。ですが、大人である教師がきちんと扱われるのを間近に見ることで、子どもたちは未来を信じられるようになるのではないでしょうか。

かつて勤めていた高校で、ほぼ全盲に近い同僚がいました。タクシーでの送迎、杖をつきながらのゆっくりとした足取り。ですが、その方は他の誰よりも謙虚で、同時に自分のできる仕事に関して高い責任感を持っていました。

その方を目にするたびに、こう思っていました。「もし私が目が見えなくなったら、仕事を辞めて、家に引きこもるだろう。本当はあの人のように教師を続けたいと思いながら、実際は違う行動をとるだろう」。そして今でも、当時と同じように感じてしまいます。

私の心は、こんなに弱い。だからこそ、そういった人たちと仕事を共にする必要があるんですよね。

「障害を持つ教員が担任を務めるということ」について、私の結論は変わりません。

私は当事者の方に直接お会いしたことがないので、人となりは存じ上げません。ですが、「20年間担任を希望し続けていること」に、どれくらい強い意志が必要なのかはわかります。いまだ、そのような強い意志に触れたことはありません。

もし、この方が私のクラスの担任を務めるのであれば、私は副任に入りましょう。子どもたちが受け取る恩恵以上に、きっと信じられないくらいの気づきをもらえると思います。

「サポートし、サポートされる関係性が、人生にどれだけ豊かな実りをもたらすか」。この理念が学校現場で実現することがすべてではないでしょうか。

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