84 哲学を語り、世界を想え

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皆さんこんばんは角松利己です。

今回は、磯野真穂さんのインタビュー記事に触発されたので、記事を書くことにしました。

私の結論は、

「今こそ政治は哲学を語る必要があるし、学校は学校以外の世界を深く見つめなければならない」

というものです。

「哲学」のある問いかけをしよう

まず、インタビュー記事の要点を何点か示します。

医療人類学者 磯野真穂さんによるZOOMインタビュー記事

・私たちの暮らす社会は、新型コロナ感染のリスク管理を徹底的に追求する監視社会になっており、その結果、差別や中傷、バッシングを生んでいる。その行為は「社会の周辺にいる人たちに向けて「正しさ」の棍棒がふるわれている状態である。

・「排除の力」は「周辺集団」に属する人たちだけでなく、医療従事者にも及んでいる。私たちは彼らにエールを送りながら、一方では自身のテリトリーへの侵入を許さない。自集団が感染しないために感染リスクの高い人や集団を排除するという判断を生んでいる。

・行政が「新しい生活様式」のように市民生活に入り込む過程は国家の市民生活への干渉であり、それは、市民自身もそういった介入や基準の厳格化を求めているから。そのような姿勢は思考の放棄につながる。

・新型コロナの問題は、「感染症の拡大を抑止する」のか、「経済的なダメージを低減することを優先する」のかといった「命か経済のどちらか」を選択するような問題として語られているが、実はそうではなく、正しくは「命と命の問題」。感染症による死も、生活苦による自殺や病死も同じく命の問題であり、「命か経済か」でトレードオフできる問題ではない

・人と人とが直接会って交流できないことは、「社会の死」を意味する。私たちが病気にかかり、いずれは死ぬ存在である以上、自分の体の煩わしさをケアしてくれる他者がどうしても必要になる。

・今考えるべきは、「感染拡大を抑制しさえすれば、社会は平和なのか」ということ。「感染拡大」だけでなく、人間の「命」にとってのさまざまなリスクを考慮して政策を決めていく段階にきている

「社会を覆う『正しさ』」 2020年5月8日(金)付 朝日新聞15面

「哲学」は「本質」を教えてくれる

上記のコメントから私たちに問いかけられた問いは、以下の点になります。

☑社会的弱者を抑圧する社会のあり方への問題提起。

☑社会的な存在である人間が、相互信頼関係の揺らぐ状態で、どのように振る舞うのか?

☑「自己世界」の矮小化と、「自他の境界はどこにあるのか?」という問題。

☑市民のご都合主義的な「寄らば大樹」的思考への無自覚と、個人の思考や主体性の放棄。

☑「自粛して死を待つ」ことの不条理。「我慢した結果が最も受け入れられない事態につながってしまう」のであれば、誰もその選択はしないはずだが、社会的な圧力が高い。

☑同時に、「命」そのものが「金銭的物質的豊かさ」とほぼ同等の価値しかないとする空疎な現代社会への問題提起。「命」が最優先なら、仮に収入がゼロになったとしても、食べてさえいれば生きていけるはず。しかし、私たちはそれを受け入れられないし、借金を返さなくてはならない。

☑コロナ禍の最中にも、日々亡くなっていく多くの人たちの存在がある。しかし、彼らはこれまでとは異なり、十分なケアを受けられなくなりつつある。結果、「尊厳ある死」を迎えられない。

☑「命そのもの」への捉え直し。「命」とは何なのか?

「命」と何か、という根源的な問いの答えは?

そう、「命」とは何なのでしょうか?

現状では「命」を守るために、「経済活動」という名の命が、そして「人間的交流」という名の命同時進行で失われていっています。どちらも「命」です。

つまり、「命」とは「人間の生命活動そのもの」であるということです。そして、私が「タチが悪いな」と思うのは、コロナウィルスによってもたらされる死を回避することは「自粛」すること以外きわめて難しく感じられますが、一方で経済活動や人間的交流の不全によってもたらされる死は、「諦めきれない死」であり、「簡単には容認できない死」であり、「もしかしたら回避できたかもしれない死」である、という点です。

でも、私たちはこの「タチの悪さ」を乗り越えていかなければなりません。なぜなら「経済活動や人間的交流の自粛からもたらされる死」は、「ウィルスによる死」と比べてもそれほど時間差なく私たちを襲ってくるでしょうし、それによってもたらされるダメ-ジは図りしれないほど大きいと思われるからです。そのような「死」の後には、想像を絶する自己と世界に対しての不信が広がるでしょう。

ここから脳死や尊厳死の問題に結びつけるのは飛躍がありますが、いずれにせよ「命」とは何か、「生命活動」とは何を指しているのか? というきわめて根源的な問いかけを私たちに投げかけています。

上記の磯野さんの問いかけは、「哲学」です。すぐに解答がわかる類いのものではありませんが、しかし、考える価値がきわめて高いものです。そして、こういった視点で物事を常に捉えている姿勢こそが、本当の意味で「生きる」ことにつながっています

「哲学」とは、希望

「哲学」とは「本質」を追求し「理想」を語ることです。一方で、「政治」とはきわめて「現実」的な対処にほかなりません。しかし、現実の政治はあまりにも場当たり的かつ局所的な視点で捉えられているように映ります。

磯野さんは、

今考えるべきは、「感染拡大を抑制しさえすれば、社会は平和なのか」ということ。「感染拡大」だけでなく、人間の「命」にとってのさまざまなリスクを考慮して政策を決めていく段階にきている。

とインタビューの終わりに答えていました。

「人間の命にとってのさまざまなリスク」とは、「命のあり方そのものを捉え直す視点をどれだけ、どのように持つか」ということです。

政治は「哲学」を語る必要があります。「哲学」は人々に自省を促し、希望を与えるからです

学校の仕事は「学力の保障」なのか?

では、学校が考えるべきは何でしょうか?

私は、この状況を、

学校が、「学校外の世界」に思いを馳せる機会である

と思っています。

私たち教師が今考えることは、

「学習機会をどのように生徒に提供・保障するか?」

ということで、これに異存はありません。実際に、新聞各紙では連日のように「学校教育のあり方」が記事になっていますし、ネット上でも多くの教員が多様な視点から意見を交わしています。

しかし、私にはあまりリアリティが感じられません。「学習機会の保障」は、確かに重要でしょう。それは私たち教員の責務でもあります。ただ、職員室にいる限りにおいては、世間の動向とはかけ離れた雰囲気が流れているのも事実です。誤解を恐れずに言えば、切迫感がないんです。

現状で言えば、「オンライン授業の方法論を模索している段階」です。多くの学校がそうでしょう。つまり、「どのように授業を提供するか」に限定された取り組みである、ということです。

一方で私たちが目にするのは、「世間の窮状」です。多くの企業・自営業が閉店や倒産に至っている。大学新卒者が内定取り消しに追い込まれている。学費や生活費を捻出できない大学生が学籍を奪われる。学校は臨時休校ですが、生徒の家庭で何が起こっているのか、詳細を知るよしもありません。

☑生徒たちの保護者や兄弟姉妹の雇用はどうなっているんだろうか?

☑臨時休校期間分の定期券を、生徒は払い戻したんだろうか?

☑生徒は無気力になっていないだろうか?

☑エッセンシャルワーカーを保護者に持つ生徒は、辛い思いをしていないだろうか?

☑生徒の学校に対する信頼感は、今どのレベルにあるだろうか?

「学力保障」の観点以上に、このような根本的な課題があります。

考えても仕方のないことと切り捨てるのは簡単です。でも、これらは勉強以上に重要なことばかりです。「勉強していれば大丈夫」と言われていた過去と今とでは、状況がまったく違います。

私が教師をしていてここ数年思うことは、「生徒たちの生活全般を総合的にサポートするシステム」を社会の中で機能させられないか、という点です。現実的には、以前から言われているように「外部機関との連携」と言うことになるんでしょう。ただし、これには条件が一つあります。

その条件とは、学校自体が「外部機関と連携ができる」レベルに生まれ変わることです。つまり、「学校が従来の機能を見直し、不要なものを手放し、大きく価値観をシフトさせること」が必要です。

生徒をサポートするシステムの一部として、個人的には「学籍移動の自由化」を望んでいます。その実現には多くの課題がありますが、「本質的な豊かさの追求」が最重要事項とするなら、私たちは日々の仕事をこなしながら、つまり現実にきちんと対処しながら、並行して理想を追いかけなければなりません

「最良の敵は良」であり、常に「最優先事項を優先する」姿勢が求められているのです

でも、もし学校が生まれ変わり、新たなシステムが生徒たちの住んでいる地域や通っている学校からもたらされる不利益を極力排除し、「100年人生を豊かに生きる」という視点に基づいた教育が行われたとしたら、きっと素晴らしいと思いませんか?

今回の記事は以上です。次回は「学校に変化を求めている人たち」について書いていきます。

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