16 教師は生徒を育てられない

仕事で成功する

教師は生徒を育てられない

未来予測としてよく言われていることの1つに、「終身雇用制の崩壊」が挙げられます。

このことから言えること。それは、

教師は生徒を育てられない

ということです。

理由は明白です。

公立学校において、教師は終身雇用を保証されている
生徒は「転職前提社会」に漕ぎ出す

つまり、教師が生徒を育てることには、無理があるのです。

教師は保守を強いる職業

教師の仕事の1つに、生徒が社会に適合するよう育てる、というものがあります。
これは「適合」であって、「適応」ではありません。つまり、柔軟性はありません。
「社会に合わない部分があれば、君が変わりなさい」といった考えです。

このように、教師は生徒に保守であることを強います。
そして、実際に生徒を枠にはめようとする教師が多いことも事実です。

生徒は大海に漕ぎ出す

ところで、現在の生徒の未来に関して、わかっていることがあります。

それは、

・平均寿命が100歳程度まで伸びるということ。
・従来のライフサイクルである「学習→仕事→引退」という図式が描けなくなっていること。
・AIが人間の仕事を侵食するということ。

です。

生徒は平均寿命の伸長とともに各年代における経済的自立と生きがいの模索を図りながら、一生涯学び続け、個々のライフプランに見合ったステージを転々とすることを、余儀なくされます。

学歴より能力、金銭より信頼関係、地位よりも生きがい、組織よりも個人。

このような価値観が支配する世界の中で、生きていくことになるのです。

教師に未来はない

一方で、教師は未来の動向とは正反対の価値観の中で生きてきました。

いったん教師になれば、その後の努力は問われることなく、教育の世界に身を置きながら個人としてのチャレンジはできず、組織の論理に巻かれ、退職金を気にしながら無難に生きる。

生きがいは時々感じることはできるけれど、いい意味での組織的な動きができていないため、感じられる喜びは個人レベルで収束してしまいます。

教師は、未来に生きることはできません。
よって、生徒に未来を見せてやることも適いません。
教師という職業は、未来を体現できない職業であるということです。

教師に必要なこと

教師に必要なこと。
それは、教師自身が「移行」し続けることです。
具体的には、教師としての専門性の深化・拡大・分化です。

とは言っても、「深化」はお勧めしません。

「深化」とは、たとえば専門教科や部活動の専門性を高めることを指しています。

もし、あなたが大学教授を目指したり、民間の専門職で食べていくつもりなら、「深化」は必要でしょう。

しかし、教師であるあなたは、どんなに「深化」しても、教師です。
そして従来の学校教育の範疇では、専門性を高めることにそれほど意味はないのです。

進学校においては難関大学の入試問題を解き、
困難校にあっては生徒指導のプロになり、
特定の部活動に関する造詣を深めることでその道の指導者になる。

悪いことではありません。

しかし、教師の仕事はすでに、「教える」ことから「支援する」ことに移行しています。

教師自身ができることに価値はなく、生徒が自発的に、自分の力でできるように支援してやるファシリテーターの役割を担う必要があるのです。

「深化」は教師のプライドを充足させます。だから、多くの教師はこの方向性をなかなか捨てきれません。

しかし、私は、深化を止めようと明言します。

深化は、その時々の教育行政の影響を受けながら、変化を迫られます。しかもその影響はスキルの習得やシステムの理解といったレベルにとどまることが多く、表面的なものに過ぎません。現場は、常にこのような教育行政の変化に対して受け身の姿勢です。

それが「良いもの」であることが、未来を担う生徒にとって必要なものであるかどうかが信じられないのです。

さらに言えば、
学校教育レベルの「深化」は、汎用性を持ちません。
それどころか、学校内部でしか通用しません。

学校とは「広く浅く」学ぶ場所ですから、これは学校にとっての宿命です。
しかし、この宿命は、圧倒的に面白くない。人生のダイナミクスとは縁遠い感覚です。

教師を退職した後、早世する方が多いと聞いたことがありますが、学校という非常に狭い枠の中で生きてきた場合、受け入れざるを得ないことなのでしょう。

40年前後もの間、ひたすら教職を「深化」させてきたわけですから、仕方ありません。

専門性の拡大

専門性の拡大は、多少はお勧めできます。

私自身、教師の仕事に関連性のある民間資格をいくつか過去に取得しています。

1つは大型自動車免許、1つは自己啓発、1つは心理学、1つは人間関係構築にかかわる資格ですが、はっきりと役立っていると思います。

さらにこれらとは別に、サッカーの指導者や審判員資格を取得していた時期があります。10年以上資格を維持し、50歳を機に更新手続きを行わず失効となりましたが、在りし日の教師生活を支えてくれた、思い出深く有益な資格でした。

これらの資格は教師という仕事を続けていくうえで、大いに役立ってくれています。

上記の資格は現在、すべて失効しています。ポイント制の更新手続きを必要とするものがあったり、維持するための費用がかかったりするものがあったりしましたが、結局は手放しました。

しかし、私が教師として自信をもって生徒の前に立てるのも、これらの資格のおかげです。教師という仕事に深みを与えてくれたものとして、感謝しています。

さて、あなたにはもうおわかりでしょう。

教師としての「移行」を最も円滑にしてくれるもの。
それは、専門性の「分化」です。

学校とは何の関係もない専門性を身につけろ

あなたが学ぶべきは、学校の教職員とは直接、何の関係性もない領域です。

しかし、何でもいいというわけではありません。

たとえば、あなたが趣味でカラオケをやっていて、それが仮にあなたの人生を豊かにすることであったとしても、私なら、それを学ぶことはありません。

「仕事にできる趣味を3つ持て」

という言葉があります。

「仕事にできる」とは、「価値提供をして対価を得る」ということを意味します。
現代社会においてなら、「金銭に換算できること」が、それにあたります。

私は、教師をリタイアした後、学校現場とは直接関係のない仕事をしたいと考えています。
しかも、時間的・空間的・金銭的な制約のない仕事です。

それはつまり、「個人で起業する」ことを指しています。再任用制度は受けません。むしろ早期勧奨退職を目指しています。学校教育からは離れますが、「教育関係職」は続けます。

そのためには、

汎用性の低い専門性をこれ以上身につけることはせずに、
一般社会でニーズの高い領域を学んでいく必要があります。

思わぬ副産物

実は、このような領域を学ぶ過程には、大きな副産物があります。

それは、

・学校教育を客観的に捉える視点が身につくこと。
・アイディアが多く得られるようになったこと。
・今まで以上に教師の仕事に打ち込むようになったこと。

です。

この点に関する詳細は、他の項目に譲ることにしますが、これらは大きな収穫でした。

教師は生徒を育てられない。

私がこのようにお伝えする理由が、おわかりになったでしょうか。

ただし、それでも私たちは生徒を育て続けなければなりません。
私は年齢のせいか、このような「矛盾」をそれほど抵抗なく受け入れられるようになっています。

明らかに矛盾していることを遂行するには、本質の追求や発想の転換など、根源を追い求めながら柔軟に対応する力が求められます。私は、こういった思考が嫌いではありません。

教師である私たちが古くからある価値観から解き放たれるとき、きっと、いろんなことが実現するはずです。

学校は、旧習から脱却する先鋒であってほしい。

それが私の願いであると同時に、あなたの願いでもあってほしいと思います。

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